根岸競馬場がこの地に完成したのは幕末の1866年12月。
翌年に日本で初めての洋式競馬が開催され、
その後76年間にわたってレースが行われました。
当初は居留外国人の娯楽として始まった洋式競馬でしたが、
やがて日本人、とくに貴族に親しまれるようになり、
根岸競馬場は日本人も含めた社交場として賑わいました。
競馬は春と秋の年2回開催、
根岸競馬場は1942年10月の開催を最後に、閉鎖に追い込まれます。
当時は紛れもなく戦争中であり、
閉鎖の理由としてこの地が横須賀軍港を一望でき、
艦船の動きから航空廠(こうくうしょう)、
工廠(こうしょう)、諸学校の実験、研究、演習まで
海軍の動静を詳細に探知することが可能で、
防諜(ぼうちょう)上無視できないこと。
さらにこの競馬施設は
そのまま海軍の作戦のための
通信連絡要務に利用できる条件を
備えていたことという二点が挙げられています。
戦後、根岸競馬場は米軍により接収。
1969年に一部施設が返還されましたが、
競馬場としての再起には至らず、
老朽介していた二等馬見所やパドックも解体。
そして現在、
唯一残された根岸競馬場の遺構こそが、
この旧一等馬見所
設計者は、
東京の丸ビル設計のためにアメリカから来日し、
そのまま横浜に住んだJ・H・モーガン
関東大震災によりそれまでの馬見所が壊れた後、
1930年に新たに建設されたものです。
現在、正面側は、
米軍施設で立ち入ることが出来ず
見ることはできませんが、
裏側および横から眺めることができます。