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浦賀の渡船 その2

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室町時代に、聖護院准后道興(せいごいんじゅんこうどうこう)が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に
「・・・浦川の湊(みなと)といへるところに到る。ここは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、
金沢、榎戸(えのきど)、浦河とて、三つの湊なりけるとかや・・・」とあります。
そこが現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては、
歴史家の間に疑問があるようです。
しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが書物の中にみられる最初のものです。
 
いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条氏によって使われていたことは確かなようです。

 この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。
英人ウィリアム・アダムスを逸見に住まわせ、
しきりにイギリスやオランダなどの商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。

 享保五年(1720)、浦賀奉行が置かれると、
江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で船改めをすることが義務づけられました。
そのために、浦賀の町は大いに栄えます。
 
以後、浦賀港は、黒船の来航、咸臨丸の出港、日本最初の洋式船鳳凰丸建造の地として、
更には浦賀船渠株式会社の設立と、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。

 この港は、湾が約1.5キロメートルも入り込み、
東西両岸の住民が往来するのには、渡船を利用することが最も便利でした。
したがって、渡船は早くから開かれていたようです。
 
明治九年編さんの皇国地誌には
浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・船二隻ヲ用ヘテ往復ニ便ナラシム私渡ニシテ修繕民費」とあるところから、
最初は民営の渡船であったようです。
 
大正六年には、その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。
更に昭和十八年四月一日浦賀町が本市に合併されると、渡船事業も市営になりました。
昭和二十四年以後、と線の運行業務を民間に委託し、現在に至っています。
 
 
 
※1977年、横須賀市制70周年記念事業として
「横須賀風物百選」を選出した際に作られた説明板より