PEACE IN TIME

ギャラリー形式のMy Photograph Album

春日神社(旧小菅ヶ谷村社)

f:id:soft_machine:20201216112259j:plain

春日神社は、
古く本郷六村の総鎮守であったと伝えられ、
天児屋根命外三柱の神を奉斎し、
末社には、神明(桂・公田)八幡(鍛冶ヶ谷)、
白山(上郷)、稲荷(中野)の
本郷各村の村社がある。
「新編相模風土記稿」によれば、
永禄8年(1565年)に、
小田原北條氏の公田の地頭職であった
宇部左京亮の子息、
宇部松菊丸が再建したといい、
社伝もこれを伝えている。
しかし、
春日神社の総社である奈良の春日大社は、
奈良時代初期の創建で、
藤原氏氏神と祖先神が祀られており、
平安時代を通じて
藤原氏の拡大発展とともに全国に流布され、
藤原一族支配の地域神として、
村社・鎮守・総鎮守となったという。
本郷の地は平安時代山之内荘本郷といわれた。
山之内荘は
柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族、
山内区首藤氏の荘園である。
本郷は奈良朝尺度郷の中心地であり、
山之内荘の中心的穀倉地帯であることを考えると、
この春日神社は、
山内首藤氏により創建されたとするのが自然である。
山内首藤氏は荘園領主ばかりでなく、
在地武士団でもあり、
源義家以来、源氏と深く関係していた。
山内俊道とその子俊綱は、
保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)の折、
源義朝につかえ、戦死している。
源頼朝の挙兵の折は俊道の次男経俊が頭領であり、
当然頼朝を援けると思われたが、
頼朝方弱小とみて平家方に味方した。
このため後に鎌倉に入府した頼朝は経俊を捕らえ、
山之内荘を土肥実平にあずけ、
後に和田義盛に与えた。
このため、
崇敬の中心山内首藤氏を失った春日神社は、
次第に衰亡したものと考えられる。
戦国時代の末、新しく小田原北条氏から
「本郷公田」の領主に任ぜられた宇部氏は、
周辺に威勢を振るう政策の一つとして、
春日神社とその別当寺の龍光院
(明治に廃寺となる=現在は、春日神社務所)を再建し、
その昔の総鎮守の力を示すため、
当時の本郷各村の村社を末社として記録したと考えられる。
要するにこの春日神社は伝えられるよりは、
はるかに古い平安時代の創建と考えられる。
(境内掲示より)