鎌倉市扇ガ谷2-12-1
2024.12.4
扇ガ谷の支谷、泉ヶ谷に位置する浄光明寺
お寺の方がガイドしてくださる
鎌倉地方独特の装飾技法である
「土紋」が施されいる阿弥陀三尊像や
矢拾地蔵はぜひ拝観して欲しい仏様。
《阿弥陀堂拝観》
木曜日・土曜日・日曜日・祝日
10時00分~正午、13時00分~16時00分
※雨天と8月、年末年始は中止
北条氏滅亡後
ニューリーダーとなった新田義貞と足利尊氏は
ともに次の武家政権を作ろうとしていたけれど
両雄並び立たず
新田と足利、そして後醍醐天皇との
次期政権をめぐる
三つ巴の思惑が渦巻いていました。
アニメ『逃げ上手の若君』のテレビ放映で
一躍知られることになった
「中先代の乱」への対応で
1335年、尊氏は京を出て鎌倉に来ていました。
足利尊氏と後醍醐天皇の間に
決定的な亀裂が入ったのは
「中先代の乱」の鎮圧後。
足利尊氏は、
帰還要請があったにもかかわらず鎌倉に残留し
中先代の乱で武功のあった将への
論功行賞や戦後処理などを
勝手に行ってしまったのです。
恭順の意志を示すために出家し
ここ浄光明寺に籠っていた尊氏ですが
後醍醐天皇にとって尊氏は
発言力も大きくなっていて
もはや邪魔な存在
一方、新田義貞は
尊氏が鎌倉に出向いている隙に天皇にとりいり
武家政権をつくるという野望を持っている
足利を討てとの勅命をとりつけました。
大軍を以て
鎌倉に向けて進発した新田軍に対し
兵を動かせば天皇に弓をひくことになり
といって動かなければ新田に敗れる事になる
尊氏はどう対するか悩みます。
細川頼春らの近臣と応戦か恭順かを協議し
寺内の阿弥陀堂で応戦と決断しました。
朝敵にされて士気の上がらない足利軍は
三河国や遠江国、駿河国で次々と敗退。
総大将を務めていた
実弟の足利直義の直談判もあり
ようやく軍兵を率いて鎌倉を発った尊氏は、
足柄峠向こうの竹之下で新田軍と激突
そして
やがて足利政権(室町幕府)の
樹立につながります。