PEACE IN TIME

ギャラリー形式のMy Photograph Album

源氏池と旗上弁財天社

神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31

 

南坂東は平定したものの
源義仲が勢力を伸ばしつつあり
武田信義を中心とする甲斐源氏
甲斐、信濃駿河遠江を勢力下におき
平家は、平清盛が熱病で世を去ったとはいえ
全国に命を下した源氏討滅の軍が鎌倉に迫る
そんな動乱状態の中
鎌倉の街造りが進んでいきます。

この源氏池は、
朝廷より頼朝の東国支配権を承認する
宣旨が下された1年前、1182年に
伊豆山走湯権現伊豆山神社)の僧侶
専光房 良暹(せんこうぼう りょうせん)と
大庭景能に命じて造らせた池。

社前の水田三町余(約3万平方メートル)の
弦巻(つるまき)田とよばれる
田圃をつぶして造られました。

池の造成奉行となった大庭景能(景義)は、
頼朝から
あいつだけは許さない」と言われていた
大庭景親の兄。

1180年に大庭景親父子が
藤沢市の固瀬(片瀬)河原で
斬首された時には
大庭景能が処刑人になっています。

この源氏池には、
当初4つの島が造られました。

それを知った北条政子
島の数四は死に通じると激怒

戦での死を暗示しているから
島の数を
3つに変えさせたという説があるけど
私が思うにこのころ政子は
頼家を身籠っていて
それで産に通じる
島の数3にこだわったのだと思う。

 

ちなみに源氏池、平家池
源平池という俗称は
江戸時代に名付けられたといいます。